2011年4月4日月曜日

進軍ラッパ(死んでもラッパを離さない)


ビーグル
ビーグル
子供の頃「死んでもラッパを離さなかった戦士」の話を聞いた事があります。明治27年と言うと今から遡る事117年の日清戦争の実話だそうです。無線通信の無かった当時、ラッパは世界の軍隊で「突撃」・「進め」・「止まれ」・「撃ち方始め」・「撃ち方止め」といった戦闘指揮の号音(号令)を伝える手段として使われていました。しかし其れは敵軍に指揮官の所在場所を知らしめる結果となり、次第に廃れて行ったそうです。信号ラッパは現在でも、自衛隊や消防は起床・国旗掲揚・朝礼・食事・国旗降納・消灯といった日常生活(日課号音)や、栄誉礼・パレード(観閲式・閲兵式)といった式典行事などでは現代でも使っています。
ラッパ手は、他の隊員や団員とは別扱いで、消防では個人的にラッパを貸与され、その手入れに余念がありませんでした。誰のラッパが一番艶があり輝いているかも誉の内だったのでしょう。
さて「死んでもラッパを離さなかった戦士」は、木口小平と言いその美談、武勇伝は軍歌(戦時歌謡・軍国歌謡)「露営の歌」として、現在でも歌い継がれて宴席で時折歌わされた記憶も有ります。組織にとって「士気の高揚」は大切なことです。それによって号令の下に忠実に部下が行動を起こすわけです。指揮官の命令を伝えるラッパは、無線機であったり拡声器であったり形は変わりましたが、役目は変わっていません。東北地方太平洋沖地震では、戦争も髣髴とさせる大惨事でした。自然の力の前に、人はなす術が無いことを今更思い知らされる結果となってしまいました。美談は多く有るでしょうし、語り継がれるでしょう。その中でも、人生最高の幸せ=結婚を目前にした女性が、自身を犠牲にしてまでも職務を全うした事を語り継いで欲しいと思っています。宮城県三陸町の役場職員の故遠藤未希さん(25歳)です。数千人の証言によれば、危機管理センターから津波による「避難命令」を住民に放送していたそうです。「お陰さまで助かった」と多くの住民が証言しています。屋上に避難すれば、助かる可能性もあったのに、最後の最後まで自身を犠牲にして住民のために声が嗄れてもマイクを離さず、避難放送を続けた彼女のご冥福を祈らずには居れません。血縁者に警察官も居られ、任務に対する使命感や義侠心を見ながら育ったことも、マイクを離さなかった理由に繋がっているのかも知れません。経済成長で見失いかけていた義侠心「正義を重んじて、強きをくじき弱きを助けるおとこだて」を、彼女は私たちに教えて下さったような気がしてなりません。

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